大人になりたくないという気持ちを変える 

大人になりたくないという気持ち

先日、合唱の講演に参加してきました。

とても素晴らしいホールで、ほんの少しの音が客席から大きく反響するような造りでした。でも、歌っている側は自分の声があまり聞こえません。歌いながら、自分の声がどうなっているのかすごく気になっていました。

気づいてみると、自分の声が人にどんな印象を与えているのか、あまり考えていなかったなと思いました。

声も自分の一部として、意識してみたいと思いました。

さて、今回のテーマです。

合唱では練習合宿もありました。その中で、『大人になりたくない』という気持ちがわいてきました。社会での責任を果たすこと、自分の行動や立ち位置への変化を求められているような感覚があり、漠然と嫌だなぁと思いました。

そのことを扱ってみようと思います。

大人になりたくない気持ちを分析する

まず、大人になりたくないという気持ちに意識を向けてみました。すると、強い恐怖心が出てきました。これだけ強いと、一般的な怖さとは意味が違うのかもしれないです。私なりの意味づけがあるのかもと思いました。

自分の考えを確認するために、いくつか質問を試みました。

大人になることは何かを失うことだと思っているでしょうか。

漠然とですが、愛を失うような気はします。愛されるために大人になってはいけないという発想もあるように思います。

愛されることに問題があるのでしょうか。それとも、人を愛することに問題があるのでしょうか。

どちらかというと、人を愛することの方に問題がありそうな気がしました。

試しに、人を愛するという感覚を感じてみます。すると、深い悲しみがあるような気がしました。その悲しみを感じてみることにします。

感じてみると、悲しみを感じてしまうと、動けなくなるという思いが出てきました。悲しみを無かったことにしていたようです。悲しみには少し恐怖心も混ざっていて、マーブル状になっていました。できるだけ、悲しみに意識を向け続けます。

次第に、私は悲しみに対して強い反応を起こしている気がしてきました。悲しみを避けるために、過度に問題を回避して遠ざけているような気もします。悲しみを感じることが苦手なのかもしれません。

悲しみと孤独感そして怒り

悲しみを更に受け入れようと思い、捉え直してみました。すると、胸のあたりから冷たい空気が出てくる感覚がありました。その感覚を維持しながら、悲しみを見つめ直してみます。

すると、母親の顔の表情がいくつか浮かんできました。そして、嫌われたくないという気持ちが生じてきました。どうやら、母親に嫌われたくないあまり、顔色や機嫌を読み取っていたようです。

私の母は、友達には良い顔を見せますが、家族に対しては感情的になり、気分屋なところがありました。誰かに良い顔をするのに必死になっていて、家族が粗相をすると不機嫌になっていました。他人の発言が家族を振り回すことが多く、家族間の明確なルールがなかったので、どうしたらよいか分からずに私は不安を感じていたようでした。

そのことを思い出すと、悲しみと孤独感が湧いてきました。自分よりも他人のほうが重要だというメッセージをいつも受けていたように思います。親から無視されることもよくありました。親は私をコントロールしようとして、そうしていたのかもしれません。

ここまで感じてくると、今度は怒りと怖れが湧いてきました。怒りは激しく、胸のあたりが真っ赤に染まるような感覚です。殺意が湧いてきたのかと思うくらい、強い感情でした。

感情の処理を進めていくと、今度は祖父のことを思い出しました。そういえば、祖父は弟を贔屓していたように思います。長男を大切に思っていたらしく、弟が生まれた時に家族に一言も言わずに名前を役所に届けてしまったり、私の見たいテレビ番組は見せてもらえず、祖父は弟が見たいものを見せました。いつも私とは関係のない番組が流れてるので、私はテレビに関心を持たなくなりました。家の中で起こる色々なことが、私とは関係ない物事でした。

家庭の中で感じていた疎外感

そこまで状況を理解すると、私は家庭の中に疎外感を感じていたことがわかってきました。自分は生まれてくる必要がなく、弟のオマケのような立場以外は認められないような気がしていました。私自身も不安定でしたが、家庭はもっと不安定でした。父は自営業になり、お金が入ってこないときもあり、それが私の不安定な感覚に拍車をかけていました。自分がいなければ、もっと家計は楽なんじゃないかと考えてしまい、自分の存在理由を見失っていました。

当時の感覚に意識を向けると、苦しみが強く、固定化した枠組みの中でもがいている感覚がよくわかりました。自分の自由な選択が許されませんでした。頭が良さそうに見えることを求められましたが、他人の目から見て賢そうに見えることしか重要ではなかったようです。勉強するように言われていましたが、親も勉強家ではなく、あまり効率も良くなかったようです。

不安定な中で、親の顔色をみながら、絶望していました。大人になったら、家から追い出されると思っていました。自分が家の中で必要とされない人間だと感じていたのです。

もう少し、家庭内での居場所がない感じを受け入れていきます。今まで、この感覚を感じないように、相手の期待に応え過ぎてしまったり、努力しすぎていたようです。大人にならないように、他人に必要とされる人間になろうとする、一致感のない目標を立てていました。そんな家庭内の状況がわかったところで、今度は大人になるという感覚に切り替えてみようと思いました。

大人になろうという感覚へ変えてみる

昔の目標を意識すると、息苦しさを感じました。しばらく目標に意識をおきながら、大人になろうという感覚を持ってみました。はじめは、聞く耳すら持たない感じで分離していましたが、しばらく続けます。

すると、大人になると死んでしまうような感覚が生じてきました。大人になれないという思い込みもあったのかもしれません。それでも、大人になろうという感覚を持ち続けました。

しばらく、色々なイメージが湧いていました。大人になって新しい世界を生きようという感覚を強く持ってみました。すると、固まっていたものが流れはじめるような感じがありました。女の子たちがお化粧に興味をもつのも、男の子たちに髭が生えてくるのも、ひよこが鶏になるのと同じように、自然なことだととらえてみました。

しばらくすると、怖いという気持ちが出てきました。

大人になったら死んでしまうから、怖いという発想のようでした。ただ、私が怖いのは死ぬことそのものであって、大人になることそのものではないように思いました。大人になることと死がくっついているのです。大人になることと死は実際には関係ないだろうと思います。大人になったら、大きな変化があるような気がして、それが子供の自分が死ぬようなイメージのように感じていたのかもしれません。

分断されていた領域

考えを整理していると、更に怖さが出てきました。

そこで感じたのは、大人の世界と私の世界が分断されている感覚でした。異なる領域のように感じていたのです。しかし、どの大人も子供の時があったので、分断されているのは不自然な気もします。なぜ、大人の領域に入れない感覚があるのでしょうか。私が入れないと思っている領域はどんな場所なのでしょうか。

しばらく、分断された場所を意識していると、それは両親が私に対して作っている壁かもしれないと思いました。大人の領域に入れないというのは勘違いで、両親の領域にはいれないという感覚が正しいのかもしれません。あらためて、壁に意識を向け続けました。

すると、完璧な存在じゃないと大人ではないという思いが出てきました。そう思い始めたきっかけはわかりませんが、完璧になったら大人になれるんだと思っていたようです。ちゃんとしないと大人になれないと言われたことを鵜呑みにしたのでしょうか。

そう思うと、大人になるとはどういう意味なのか、疑問に思えてきました。大人という定義自体がとても曖昧で、色々な姿を示しているような気がしてきました。このまま進めても、単に偉そうに見える人が大人だと思ってしまいそうです。それなら、自分なりの大人の定義を持ってみようかなと思いました。例えば、自分にとってよき人生を見定めて、実現していくことができる人を大人とするのはどうでしょうか。それなら、大人になることの重要性は高まる気がします。

新しい大人の定義

私の定義での大人になることを感じてみると、静かな怖れを感じました。これまでは、未来への不安やオドオドした感覚が混ざってる印象でしたが、今は静かな感覚です。未来への確信に変わったのでしょうか。

自分にとっての大人を決めることで、安全に確実に大人になれると感じました。今まで、大人の曖昧なイメージに振り回されていて、自分がどんな大人になるのかについて、考えたことがなかったと思います。

40歳すぎてここに取り組んでいる自分に、苦笑しつつ、これから静かに大人になっていこうと思いました。

これを読んだあなたにも、よき気づきがありますように。

自己探求&感情カウンセリング 山田結子

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