人格を統合したら、居場所のない感覚が見つかった 

はじまり

こんにちは、山田結子です。

ようやく春になり、冬眠していたメダカ達が餌を食べるようになりました。安心したのも束の間、突然、水質が悪化し始めて、赤い色の苔が生え、異常な雰囲気を感じました。もう少し暖かくなってからと思っていましたが、慌ててその日に水槽を移し変えました。暖かくなってきて、水槽内のバランスが崩れてしまったようでした。生き物と環境はちょっとしたことで崩れてしまうと思いました。

生き物が心地よい生活を送れるように考えることは、人間の生活リズムの心地よさを意識することにもつながるように思っています。たまに冷や汗をかきつつ、メダカと静かに付き合っていこうと思います。

さて、今回のテーマです。

前回のコラムで、絵を描きたくない気持ちと向き合ってみました。それをよく確認していくと、ひとつの人格のような存在が見えてきました。今回は、感情カウンセリングでその人格を統合をできるのか、挑戦してみようと思います。

 

遠くにある人格を意識する

まず、人格を意識してみます。あまり深く突っ込まず、軽く外側から確認してみます。私の感覚では、少し遠い場所にあるようにとらえています。

人格は強固な意思を持っていて、強情な雰囲気でした。人に心を許してはならないと強く思っているような印象です。この強情なまでの意思は、どういった感情からくるのでしょうか。

怒りか悲しみでしょうか。

それぞれの感情を意識してみると、悲しみからきてるという感じがしたので、まずはそこから進めてみることにします。

この人格の持つ悲しみを感じようと強く決め、悲しみに意識を向け続けました。普段取り扱う感情よりも、ずっと遠くにあるような感覚なので、かなり集中しないと繋がりが途切れてしまうような気もします。悲しみを受け入れると再度決意を固めると、僅かに感覚が開きました。

意識を向け続けていると、少しずつ悲しみのエネルギーが感じられてきました。感情が流れ込んでくるような感覚です。もう少し繊細にとらえると、悲しみ以外の複雑な思いが沢山ありそうでした。しかし、この場では悲しみにフォーカスを向けます。

しばらく感じていくと、悲しみが許容量を超えてしまい、無意識になっている状態が感じられてきました。それくらい悲しいことがあったのかもしれません。内容はまだ読み取れませんが、とにかく感じていきます。

続けていると、人格の強硬な態度が軟化してきました。このまま進めれば、この人格を自分のものとして扱うことができそうに感じました。

感情の処理を繰り返すと、深い悲しみが私の中にあるような感覚に切り替わりました。先程まで確認できていた人格は形がぼんやりとして薄くなっています。

念のため、もう少し繋がりを深めてみようと思いました。この深い悲しみを理解する事で、分離していた人格を受け入れようと決めると、意識を強く持ってみます。すると、悲しみ以外のものも感じられるくらい、この分離していたエネルギーを近くに感じられてきました。

 

近づいてきた人格から情報を取り出す

これくらいの処理で、漂流していた船(離れていた人格)を自分の船(自分の意識)に繋げられた…くらいのイメージでしょうか。これから、漂流していた船から荷物を下ろしていくと、情報が統合されるような気がします。

改めて、感情の処理を進めていきます。

新しい感覚には色々なものが入っていて、ごちゃっとした感じがあります。とりあえず、そこまで頑なになってしまった理由がなんなのか、意識を向けていきます。

すると、自分は誰にも必要とされていないという気持ちが出てきました。この人格分離は小学生くらいの時に起きていました。自分がそのままの状態でいると、周囲の人とうまく交流できず、やむを得ず押さえつけた部分だったようです。そのままだと誰にも必要とされないので、自分の性格を無理に変えてしまったようです。幼稚園の時から、他の子供たちとうまく遊べなかったりしたので、小学生でそれが問題になり始めたのかもしれません。

その気持ちを受け止めてみると、不安や怖れが出てきました。処理を進めながら続けてみます。誰にも必要とされないという気持ちは大きな塊になっている気がしました。

ありのままの自分は誰にも必要とされない。いつも努力すべきで、本来の自分とは違う人間を演じないとその場にいられないような気がしていました。居場所がないことが普通で、その場にいるためには常に努力し続けないといけないのです。自分を変え続けないといけないという感覚でした。

 

必要とされなかったありのままの自分

では、ありのままの自分とはどんな自分なのでしょう。

それを受け入れようとすると、恐怖心が湧きました。怖れを処理しながら、ありのままの自分を受け入れてみます。

 

ありのままの自分に何か問題があるのでしょうか。一般的には幼少期にありのままの自分を否定されると、より根源的な自己否定になりやすいとは言われています。私も変えようのないことを否定されたことがあるのかもしれません。

そのことに意識を向け続けていると、外見を否定されたという気持ちが出てきました。そういえば、自分の外見にポジティブな評価をしたことがほとんどありません。そして、外見を頼っていてはいけないと、ずっと思っていました。元々価値が低い上に、外見は歳をとれば維持されないし、それよりも中身や知性を高めないといけないとずっと信じていました。思いおこせば、学生の時からそう思っていました。

自分の外見を受け入れることにも苦しみがありそうです。今回は外見をポジティブに受け入れてみたいので、この苦しみをそのまま感じてみます。感じていくと、黒い影が見えてきました。影がなんなのかわかりませんが、しばらく対峙してみました。

しばらくすると、私の外見に対する思いは、単純に見た目が綺麗かどうかというものではないように思えてきました。もっと複雑で、こまかな条件があるようです。しかし、今の外見が最も良い外見だと思った方がいいはずです。そもそも、頑張っても大して変えようがありません。どんな外見より、現在の外見がもっとも私らしいという気持ちを向けてみました。

ざわざわした感覚があって、その後、影の中から何かが出ていった感じがしました。

まだ、足りない感じがするので、外見も含めた自分の体は私が持っている最高の財産だと思ってみることにしました。

しばらく見つめていると、私以外の人が私がどういう人間であるべきかを決めていたような感じがとらえられました。いつも、他人が決めた理想の人間モデルがあって、私はそうならなくてはいけないと思うのですが、それが私にとって簡単ではないという感覚を感じていました。

長い髪の女性になれたら素敵かもと思って、髪を伸ばしてみても、髪を洗ったり、梳かしたりする手間が想像以上で、夏は暑くて蒸れて、いつも結ったままになってしまう。初めにいいと思ったイメージまで辿り着かないのです。

外見が認められないという気持ち

私は、外見に対して、他にどんな感情を持っているのでしょうか。

調べてみると、強い怒りと恐怖が感じられてきました。外見によって人から差別されたり、いじめられたりするという感覚があるようでした。学生時代に外見を理由に揶揄されたことはありますが、そこまで明確な差別ではなかったように思います。ただ、当時のクラスメイトは外見を理由に悪口をよく言っていたなとは思います。そのやり取りを見ていて、怖さを感じたのかもしれません。

自分の外見を受け入れたら、悪口を言われることも受け入れなくてはならないような気がしているのでしょうか。しかし、人は人である以上、個人的に外見の好みがあることはやむを得ないとも思います。ある人にとってその外見が好みではなかったり、不快さを感じることもないとは言えない気もします。悪口をいうか言わないかは別にして、相手にとって自分の外見が魅力的でないことは受け入れた方が良さそうです。

しばらく外見にまつわる感情を見つめてみました。すると、深い悲しみのようなものが見えてきました。今回は悲しみが重要なポイントなのでしょうか。悲しみとの関連が強いですね。

内容を確認すると、小学生の時の同級生の顔が思い浮かびました。こども心に憧れていた女の子でした。彼女のような女性になりたいと少し思っていました。彼女のいい面を感じていたにもかかわらず、小学生の私は彼女のような外見になりたいと思っていたようでした。どうも、外見に対する過度な過信があったようです。多くの人が外見で人を判断していて、この外見の人になれば、この発言ができるんだという発想を持っていたようでした。

現在の私は逆の発想を持っていますが、こどもの頃はそのように思っていたのだと改めて認識できました。そうなると、物事がよかったり悪かったりする理由が「外見の影響でこうなっている」と無意識に判断したことがたくさんあるのかもしれません。例えば、自分が誰かから意地悪されたと感じたら、それも「外見がこうだから」という解釈になってしまうのです。

しかし、外見の問題にしてしまうと、物事は解決しない方向に向かいます。小学生は外見を大して変えられません。髪を切るとか、洋服を変えるくらいでしょうか。あとは体をトレーニングするくらいでしょうか。私がこどもの時に、解決できない問題がたくさんあったような気がしたのは、人間関係の様々な事象を外見の問題だと思い込んでしまったことにありそうです。

一度、外見の問題が幻想だったと考えてみようと思います。

すると、胸焼けするような変な感覚を感じました。しばらく我慢して、全ての外見の問題は幻想だと意識し続けました。人は外見で好きや嫌いを判断しておらず、非言語の態度や雰囲気で判断していることが真実だと捉え直しました。

すると、私が家で居場所がなかったのも、外見の問題ではなく、私の態度や雰囲気、話し方、性格などが受け入れられなかったために起きていたということが自覚できてきました。

こどもの頃の私は、親からすると、とても生意気なこどもだったのかもしれません。自分の意見があって、周りの人がどう思うとか、ほとんど気にしないタイプでした。私が嫌われたことがあるなら、それは外見の問題ではなく、私のコミュニケーションの取り方や意志の強さが他人と軋轢を生むことがあるのが直接的な原因の可能性が高いのです。母親は私のこの部分を無理矢理直そうとしていたかもしれません。それで、人格形成がこじれてしまったように思います。

そのことを受け入れるのに、強い抵抗がありました。しかし、自分を曲げてコミュニケーションをとり続けたら、私はずっと嘘の自分で居続けないといけません。人間関係もそうやって構築されていくので、直すタイミングを見失うと永久にこの状態が続いてしまいます。

居場所のない感覚は、無視されていた本当の私の声

私が持っていた『居場所のない感覚』は、そもそも本当の私を隠していることが、大きな原因だったのかもしれません。

そこまで意識を向けると、今すぐにでも自分を受け入れる方がいいような気がしてきました。今発見されたことを幸いとして、強固な意志を持った自分と向き合ってみます。

すると、硬いエネルギーが出てきました。まるで石でできた彫刻です。これだけ固いと、エネルギーと言えない気もします。単なる塊です。とりあえず、この部分を溶かしてみることにします。いくつかのやり方を試すと、エネルギーが崩れ始めました。そして、感情にフォーカスすると、また悲しみが背景にあるような気がしました。悲しみで心を閉ざして、こうした硬い状態になったのでしょう。

悲しみの処理を始めると、私はこれまで周りの人の悲しみに無関心であったこともみえてきました。私の周りの人たちは、自分たちの悲しみの原因が私にあると考えているようでした。しかし、私にしてみたら、私がどうしたいのかを私に聞かずに、周りが勝手に色々なことを決めておいて、私がそれを断ったら彼らが悲しむという現象が見えました。

私は、彼らが悲しんでいることに気づかずに、責められているとか、自分勝手な要求を押し付けているように感じていて、それが悲しみに対する苦手な感覚になっていたようです。

そのことを受け入れると、心がとても穏やかになり、これまで感じていた息苦しさがなくなっているようでした。

まとめ

では、ここまで取り組みを進めてみて、はじめに感じた強固な人格はどうなったのでしょうか。意識を向けてみると、固い感覚はなくなり、そこには風が吹いていて、細かい塵のようになっていると感じられました。完全になくなっているわけではありませんが、細かい粒子のようになっている感じがしました。

また、自分の居場所がない感覚はどれくらい解決できたでしょうか。見つめてみると、自分がここにいるという感覚が強まっていると感じました。自分の意思で生きている感覚が強くなっている気がします。

そして、悲しみが以前より存在感を増しているような気がします。ここをもう少し深く取り扱うことで、また新しい発見があるかもしれません。

当初の目的は果たせたので、一旦はここで完了とします。

いかがでしたか。今回は分離していた人格を取り戻して、居場所がない感覚を感じるプロセスを進めてみました。いくつか、他の手法も使っていますが、感情を切り口にすることで色々な進め方ができると感じました。

また、感情カウンセリングを通じて、新しい発見を積み重ねていきたいです。

 

自己探求&感情カウンセリング 山田結子

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