またバカにされてる⁈ツライ思い癖からの解放
事実はきっと違うとどこかで知りながら、それが確かなことのように感じてしまうことはありませんか。
いわゆる思い癖です。
私の場合はバカにされてるように感じるのが根深い癖でした。
この癖の厄介な所は、相手が実際バカにしていなくても、自分が思い込むことでまるで事実のように思えてしまうことです。
今回はこの思い癖に気づいた所から、解放されるまでのことを書いてみたいと思います。
この記事の目次
・バカにされてる気がするのはなぜ?
ある契約の説明を受けていた時です。ふとバカにされているように感じることがありました。
苦手な内容で難しい言葉が並んでいたからかもしれません。
「頭が悪いって思われてるんじゃ?」、「理解力がないって思われてる?」と次々ネガティヴな言葉が浮かんでは消えました。
その時は落ちこんだままでしたが、後で思い返してみると、説明してくれた方の口調や態度は決して嫌なものではなく、親切、丁寧でこちらの話にも耳を傾けていました。
それなのにバカにされてるように感じるのは変だなと思いました。
思い返すと、以前から職場や友人との間でバカにされてると思うことが度々ありました。実際にひどい口調や態度を取られた訳ではないのにです。
また何でもない時にも「バカにされるんじゃないか。そうなったら怖いし嫌だ。」といつもどこかで身構えていることに気づきました。
・トランプで負けてバカにされた悲しい過去
家でぼんやりしながら、なぜ「バカにされてると感じるのか」と考えてみました。
振り返ると、幼少期にバカにされてひどく悲しかったことが浮かんできました。
幼い頃、家族でよくトランプをしていました。
私は勝負事があまり好きではなく、勝つことに闘志を燃やすタイプではありませんでした。子どもなので記憶力が高かったのもあり「神経衰弱」が得意でした。それから手が早かったこともあり「はやぶさ」というゲームも好きでした。
一方で頭を使うゲームは苦手でした。父や姉は頭を使うゲームが得意で、勝負になると勝つまで何回も挑んでいました。
私はその熾烈な感じがつらかったのですが、みんなといたいのでゲームに加わっていました。
ある時「7並べ」を姉としました。
姉のカードが飛び抜けてよく、さらに出せる札を持っていても休みを取ったので、私はほとんどカードを出せずに負けてしまいました。
負けた悔しさもありましたが、それ以上に次々攻め込まれる感覚に恐怖を感じ、ゲームなのになんでこんなにつらい思いをしなきゃいけないのかと泣いてしまいました。
さらに父が「ほんと、ダメだなー。」とバカにした口調で言いながら、「負けたらやり返さなくちゃ!記憶力や手の速さで勝つのはバカでもできる。頭で勝てなくちゃ。」と。
私はとにかく悲しくて部屋にこもってワンワン泣きました。負けて悲しいだけでなく、父親にバカにされ、さらに得意にしてたものさえダメだと言う。
自分はダメでバカな人間なのかととても悲しくなりました。
・幼少期のトラウマを癒す
ここまで思い出す内に目から涙があふれていました。胸が苦しくてのどもつかえているのをジワジワ感じていきました。
胸を感じると黒っぽいハンドボールぐらいの重さがあり、ゆっくり味わうように感じると野球ポールぐらいの大きさになりました。
さらに感じる内に
「バカにするなんてひどい!」
「いくら勝負だからって、余りに非情じゃないか。」
「この人達こそ、よっぽどバカじゃないか。」
という強い怒りが出て胸がスーッとしました。気づけば胸にあった球はピンポン球ぐらいになっていました。
さらにこの「7並べ」での出来事を感情カウンセリングのセッションの中で扱ってみました。
当時のことを深く感じていくと
「完膚なきまでに制圧される辛さ、悲しさ」という言葉が口をついて出て、過去生での感覚が出てきました。
どの時代かはわかりませんが戦が起こり、敵が一気に攻めてなす術もなく殺されたように感じました。
胸が締めつけられるような感じで「戦の虚しさ、悲しさ」を感じ、もうやり返す気力もなくなっていました。
その時の辛さや苦しさ、虚しさを感じている内、この過去生の感覚に浸っている最中にダメだ!と言われたことで、より厳しさと悲しさを感じたのかもしれないと思いました。
もしかしたら、戦前生まれの父にとっても、「戦争で負けたらどうなるかわからない」という恐怖心が子ども心にあったのかもしれません。リアルな戦争で負ける怖さが勝負事に投影され、より厳しい言葉となって発せられたようにも感じました。
・先生にバカにされた心の傷をみつめる
小学校でもバカにされて傷ついた経験がありました。
小学校2年生の時、担任の先生が私に嫌なあだ名をつけ、絵描き歌を作って、みんなの前でからかうことがありました。
「なんで先生がそんなひどいことをするんだろう」と理由がわからずひどくショックでした。
クラスのみんなも面白おかしく囃し立てるし、からかわれてるのをヒイキと言われることもあって、それも悲しいことでした。
次第に「私がどこか悪いからこんな風にバカにされ、いじめられるんだ。」と思いこむようになりました。
もう少し深く当時のことを思い出してみると、胸に重石があるようでした。その重石はわけのわからない悔しさと権力への怒りと言ったものでした。
その悔しさと怒りを感じていると胸がギュッと締めつけられるようでした。振り絞るように「私は本当は悪くない」という言葉が出てきました。
当時、先生を批判、非難してはいけないと信じていて、正当な文句を言えない悔しさ、怒りがあったようです。
辛さ、悲しさ、悔しさ、怒りを感じていくと、重石に小さな穴がいくつか開いてきました。さらに石に迫って感じていくと固まり自体はなくなり、透明な残骸が残りました。そして、心が自由になったように感じました。
・気づき(バカにすることもされることもある)
幼少期のバカにされた時の感情を見つめてみると「バカにされること」と「過去生の殺された痛み」がくっついて、怖さを煽っていたことに気づきました。
また学校時代では、理不尽に思いながらも「大人の方が正しい」と思うことで「価値のないダメな自分」を強化していたことに気づきました。
怖さが和らいでからは、不思議とバカにされることを気楽に受け止められるようになりました。
また自分自身も、無意識に弟をバカにしていたことに気づきました。
ちょっとドジをしたり、行動が遅かっただけで、「ほんとしょうがないなー」と思ったり、ため息をついたりしてるのです。
年下の気安さや可愛さがあったのと、「ちゃんとするべき」という思いこみがあって、当然のことのようにやっていました。
よく考えると、父親も先生も似たところがあるなと思いました。
父親は「負けっぱなしではダメだ」という思いこみから言葉を発していたし、先生は気を許してるからこそ、ふざけ過ぎたきらいがあり、周りが笑ったりヒイキと言ったのも愛情があったからでは、と思えるようになりました。
そして、幼かったからとは言え、自分は言葉通りに真正面から受け止め過ぎていたし、人は完璧ではなく、無意識にバカにしてることもよくあることに気づきました。
・バカにされても、まぁいっか!
このように気づいてからは気持ちがさらにラクになり、「バカにされても、まぁいっか」と思えるようになっていきました。
実際、バカにされるような出来てない面もあるし、「バカにされても死ぬわけではない。」と思えるようになり、言われても跳ね返すような力が出るようになりました。
これまで必死にバカにされないようにガードしていたのが、構える必要も減って、体も心もリラックスしていきました。
またこちらが気にしなくなると、現実面でもバカにされることが減ってきました。
たまにされたとしても、「人間だからついバカにしちゃうことあるよね。」と思えたり、「確かに。そこはバカにされても仕方ないかも。」と聞き流せる度合いが増えていきました。
・まとめ
「バカにされてるかも」という思いは、子どもの頃にバカにされた経験を引きずったものであるとわかり、当時のリアルな気持ちをじっくり感じていくことで、緩ませることができました。
強い怒りや悲しみなどの感情は、感じないでいるとそのまま溜まっていつか爆発してしまいます。
一方でバカにされる現実が繰り返されることで「なぜ?」という疑問が生まれ、その理由の元をたどることができます。
溜まっていた感情が解放されれば、バカにされる現実を作り出す意味はなくなるので、自分の思いこみにも気づきやすくなります。
そうわかるとネガティヴに思える出来事はもっとリラックスして自由に生きることを促してくれているように感じました。
ネガティヴな出来事を見ていくのは大変なところもありますが、抜ければ心も現実的にも自由になることを思い出し、これからも楽しんで見ていきたいと思います。