恐れを積極的に感じることで、何もしないの素の自分を受け入れられるようになった。 

ここ最近様々なところで何もしない「素の自分」を受け入れることの大切さが唱えられているように思います。しかし実際にやるとなる、どのようにやったらよいか迷ったりしてはいないでしょうか?

私もこの言葉を聞いた最初の頃は何もしない素の自分を受け入れるをどうやったらよいか正直わからないでいました。むしろ「それって現実逃避じゃないの?」とけっこうネガティブなイメージを持っていました。しかし最近、恐れを積極的に感じることで、何もしない素の自分を受け入れられるようになりました。今回のコラムでは実際に私がどうやて何もしない素の自分を受け入れられうようになったと、それをやってよかったことを書いていこうと思います。

よい自分を演じて、自分のよくない部分を見せないようにしていた

とあることがきっかけで過去の自分を振り返ってみました。過去の自分の行動は自分のよくない部分を他人に見せないように行動していたような気がします。

例えば、小学生の時は先生のいうことを聞く真面目で大人しい子供で、中学生になると学校内で行われる中間テストや期末テストでトップテンに入る点数を収めてました。こうすることで悪ガキではない、真面目な優等生キャラを確立しようとしていたと思います。

社会人になり仕事をしだすと、結果を出すことよりも、相手に気に入ってもらえるようテキパキと動いたり、進んで泥臭いことをやってみたりと、年上の社員さんが気に入ってくれるであろうキャラを演じてみたりもしてました。

また恋愛に関しても、当時付き合っていた彼女に自分のよくない部分を見られて嫌われないように、進んでお皿洗ったり、道路の車道側歩いたり、髪の毛乾かしてあげたり、まずは話をよく聞くなど、恋愛本に載っているような気の利く彼氏を知らぬ間に演じていたような気がします。

当時はそんなことをやっていたのですが、その手法には限界があり、仕事では限界を超えた瞬間に誰かを激怒したり、恋愛においても限界を超えると当時の彼女に対して、当然冷たくなったりと、かなりひどいことをしてしまったなと思います・・・。

何もしない素の自分を受け入れようとしたら、誰かに襲撃されそうな恐れを感じた

さて時は流れていよいよ何もしない素の自分を受け入れる時が来ました。一番最初にやったときに出てきた感情は「恐れ」でした。順を追って説明すると、最初は何もしない素の自分を受け入れようとと全身をリラックスさせました。そしていい感じに力が抜けたところで素の自分を受け入れようとしました。しかしその瞬間に怖くなりました。「こんなに力を抜いてしなったら、誰か襲われたときに対応できない!!」ということが頭の中をよぎりました。

私にとって何もしない素の自分を受け入れることはそれほど怖いことでした。それはまるで防火服を着ないで、素っ裸で炎の中に飛び込んでいく感じでした。なんでこんなことを感じてしまったのか振り返りました。その理由ですが、今の今まで自分は何かしないと生きていけないと思っていたからです!!

誰かに襲撃されそうな恐れを積極的に感じた

なんでこのように感じてしまうのかは不明ですが、ひとまず何もしない素の自分を受け入れた際に発生した「恐れ」について、感情のクリアリングを行ってみました。それをやっていると襲撃されそうになった時の恐れの他に、何もしないと誰かに怒られたり嫌われたりするのではないか? 何もしない自分を受け入れたら、本当に何もしなくなり自分自身が堕落し、社会的にダメな人間になってしまうのではないか? 同世代の人達と比べて、イケてないビジネスマンになってしまうのではないか?など、いろいろな恐れが出てきました。なんでこのような感情は発生してしまうのか原因究明は後回しにして、これらの恐れ全てに対して感情のクリアリングを行ってみました。

父のような人間にはなるまいと思って生きてきた

感情のクリアリングを行って少し落ち着いた後、なんで何もしない素の自分を受け入れられなかったのか分析してみました。結果として「父の会社の跡を継ぐことを死ぬほど恐れていた」ことが原因でないかと思いました。当時は顕在的にはそこまで強く思っていなかったのですが、潜在的には「跡を継がなきゃ!!」と、相当強く思っていたような気がしました。その状態でそれこそ力を抜いた日には誰かに切られるくらいのことを思っていたような気がしました。

私が幼いときの父はというと、結構のんびりやっていました。平日の朝も遅い時は10:00くらいに起きたり、お昼過ぎには会社から帰ってきて寝てたり、もしくはその日は会社に行かなかったりと、祖父の代から働いていた方々に任せっきりな状態でした。ここで私の投影が入ったと考えられます。自分が父のようなダラけた生活をしてしまった場合確実に会社を潰して私は死ぬだろうと感じていたのでした。

何もしない素の自分を受け入れた後の変化

感情のクリアリング後、素の自分を受け入れてからの変化です。まずは身体的な変化を説明します。素の自分を受け入れた後、身体的に疲れにくくなりました。具体的にいうと仕事が終わった後のふくらはぎの浮腫による痛みが、かなり改善しました。また長時間パソコンにて資料を作成した場合も、以前なら肩が凝って痛くなるのですが、この肩こりもかなり改善しました。おそらく、素の自分を受け入れたことで、一種のリラックス状態になり、全身の筋肉から力が抜けて緩み、このような効果が出たのだと推測します。

次に人とのコミュニケーションの変化です。素の自分を受け入れた後、他人に優しくできるようになり、話し方も穏やかになった気がします。素の自分を受け入れることで、他人に攻撃される恐れや、それを防ぐための他人に攻撃しようという想いが減ったものと推測します。具体的には自分の置かれた状況をより客観的に見れるようになりました。そのことで自分の感情が刺激されにくくなり、余計な恐れや怒りが出にっくくなったのではと推測します。また、他人の発する言葉に対して余計な意味付けをしなくなったように思えます。余計な意味づけをしなくなったことで、相手の意図を理解しやすくなり、スムースなコミュニケーションを取りやすくなりました。

また前の節で述べた父に対しても、ある日突然自分と同い年の時の父について客観的に見てみたくなりました。見た結果、父は先祖代々経営している会社で働いていたとはいいつつ、私と同い年のときには会社の経営陣として働き、年収も私よりもたくさん貰っていて、かつ結婚して子供が2人もいたわけです。というわけで父はなかなかイケてるビジネスマンではないかと思えるようになりました。最近ではこの変化が多い時代の中、私自身変化を楽しみ、それをより楽しむための勉強や技術の取得は苦にならない方なのですが、これは父から受け継がれた要素ではないかと思うようになれました。

何もしない素の自分を受け入れるメリット

一言でいうと時代や環境が変化しても、気楽に生きれることでないしょうか?

過去15年を振り返っても、投資銀行が1社が倒産、地震の発生、謎のウィスルが発生などの1つの出来事で時代や環境が大きく変わったと感じます。これらの傾向から、これから先も5〜10年に1回くらいは時代や環境の大きな変化が起こると考えた方が自然な気がします。そんな状況になった場合、対処療法では全てを網羅することは結構難しいのでは?と思います。

そうなったらもう諦めて素の自分で生きるしかないんじゃないかなと最近思うようになりました。そんな自分を受け入れて、自分のやりたいことをやり、うまくいったら万々歳、後悔してもそれを糧に次に繋げる。そんな生き方の方が楽しくて、楽で、主体的に自分の人生を生きれる気がします。

そんなわけで2020年後半は「何もしない素の自分を受け入れる」ことにチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

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