聞きたくなかった「不安や心配」。聞けるようになったら気楽な関係に。 

先日母親からLINEで連絡がありました。
「ギックリ腰になったので約束を延期して欲しい」ということでした。

様子がわからなかったので電話をしました。
聞けば「大事はない、車でかかりつけの医院に行った」ということだったのでひと安心しました。

続けて色々話をしましたが、年相応に不安や心配はあるようでした。
それを聞きながらふと思い出したことがあります。

1.両親の心配や不安にイライラ

かつては母や父の心配や不安を聞くとイライラしていました。
両親はどちらかというと心配性で、話しているうちになぜか険悪なムードになっていることもありました。

それが気づくとなくなっていたのでした。
振り返れば、もう何年も苛立つことがありません。

母は例えばニュースで事件や災害があると、その大変さや深刻さを訴えて、大丈夫だろうか、そしてこちらの家族は備えはしてるか、‥などの心配が始まります。
もちろん良かれと思って、気にかけてくれてるわけです。

頭では気遣いとわかっているんですが、以前はそれを聞かされるとげんなりしたり、イライラしてしまうので、様子を見ながら連絡していたものでした。
母がなにか心配事や不安を話し始めると、「なんでそんなに不安なの?」と気づけば説教モードになったりもしたものです。

言ってしまえば、気遣いあう仲ではありましたが、気軽な会話をする関係ではありませんでした。

2.身近な人が不安げだとつらい

かつて、もう十何年前でしょうか。
その当時どんな心境だったかを思い返すと、身近な人の心配や不安を聞くことがとても嫌でした。特に身内であるパートナーや子供、親なんかがそうでした

少し距離がある関係の場合はあまり気にならない、どちらかというとケアしたい、サポートしたいという気持ちが湧くのに不思議でした。

その違いが顕著だったので、当時どうしてその違いが生まれるのかを考えていました。
そこで気づいたのは、身近な人については相手との境界線が引けておらず相手の感情に責任を感じていたことでした。

例えば、母がしょげていたら、「もっと自分が安心させられてたら元気で気分良くいるはずなのに…。自分のせいだ、なんとか元気出させなきゃ。。」と感じて、お節介な意見で説教(!?)してこじらせる…、といったことが起きていました。

母は母で自分の気持ちを理解されない、こちらはこちらで良かれと思って伝えていることが伝わらずイライラする、というとっても残念な状況です。

3.ほんとは自分が不安を感じたくなかった

加えて起きていたのは、相手の心配や不安をきっかけに無意識に抱えていた自分の心配や不安が刺激され浮上しそれらが自分の中に湧いてくるのが許せなかった。だからイライラしていたのでした。

ここまで思い出したときに気づいたことがありました。
それは、自分が幼い頃に不安や心配をたくさん抱えていたこと。
それが多すぎて、いちいち感じていると動けなくなってしまう。
だから、「不安や心配は感じないことにしよう」と決めたことでした。

それ以来、不安や心配は「感じてはいけないもの」=「悪」になっていたのでした。
自分の中でタブー視して禁じているものは「投影」されます。

そのおかげで自分の中にはないかのように錯覚して、平気なフリで振る舞えるわけです。
しかし、実はしっかり自分の中にあり続け、未解消のまま潜在意識下に沈殿していたのでした。

当時はもうその状態に慣れきってしまって、普段はそのことに気づけませんでした。
違和感をきっかけに内観してはじめて気づいたのでした。

4.弱さを認めたくない

溜め込んだ感情は、きちんと存在を認めて感じてあげることで解消(クリアリング)されます。
いわば溜まった感情の成仏、とでも言えましょうか。

そのことは知っていたので、抱えていた不安や心配を感じようとしました。

とはいえいざやってみると、長年タブー視していた不安や心配を認めるのは最初はとても難しいものでした。
自分が弱くなったかのように感じるからです。
そもそも動けなくなるような弱い状態に陥るのが嫌で、感じないようにした不安や心配です。
不安や心配を認めるのは自分の弱さを認めることでもあり、当時は絶対にやりたくないことのひとつでした。

けれども、気づいたものをいつまでも放おって置くわけにもいかないので、いやいやながら弱い自分を、そして徐々に心配や不安を認めるよう取り組みました。

5.認めたくない思いを認める

弱い自分を認めようとすると、みぞおち辺りがキュっとこわばり、身体に緊張が走ります。
それでもゆっくりと深い呼吸を続けます。
身体に力が入り固くなったところを呼吸でほぐすようなイメージで、ゆっくり呼吸を続けていると徐々に緊張が解けてきます。

そのまま続けていると、なんとも頼りない泣きたくなるような心許なさや恐怖が湧いてきます。
それもゆっくりとした呼吸で溶かすように感じ続けます。
子供の頃に感じていた怯えや、守ってほしかったのに守ってもらえなかった怒りが湧いてきたりもします。
叫びたくなったり、怒鳴りたくなったりもしました。
湧き出す勢いが増し、ときに飲み込まれそうになりますが、深い呼吸を続けます。
しばらくすると、やがて潮が引くように感情の波はおさまっていきました。

そのときようやく、「あぁ心細かったんだな。」ということが受け入れられました。
相当力が入っていたのか、身体は疲れていましたが、みぞおちや喉につっかえていた固まりがなくなったようでスッキリした感覚でした。

「ずいぶん頑張ってたね。」と幼い自分に声をかけてやりたくなりました。
それと同時に、「弱くてもいいじゃないか、弱くて何がいけなかったんだろう?」という気持ちにもなりました。

6.ありのままの自分でかまわない

この時をきっかっけに、心配や不安を覚えるのを許せるようになったことを覚えています。

自分の心配や不安を認められなかった若い頃は、不安にさせられそうな状況や人には無意識に近づかなかったり、または感情を切って強がったりして、その場をやり過ごしていました。
どこか自分に嘘をついているようで、あまり気持ちのいいものではありませんでした。

心配や不安といったネガティブなものであっても、心に湧いてくるものが素直に認められるようになると、自分の心を見張らなくていいのでリラックスできるようになります。

「自分は自分のままでいい。」
ありのままの自分でよくなれば、自然と自己肯定感もあがってくるものです。
だんだんと気持ちよく毎日を過ごせるようになりました。

7.「ありのままのあなたでかまわない」で気軽な関係に

おもしろいもので、自分が心配や不安を感じられるようになるに連れ、人が心配や不安を感じてもかまわない、と思えるようになりました。

以前は、心配や不安といった、いわゆるネガティブな感情は自分のやりたいことを妨げる邪魔者でしかありませんでした。
しかし、自分がそれを感じても大丈夫、幼い頃は動けなくなってたけれど今は心配や不安があっても動ける。
それがわかるにつれ、相手がネガティブな感情を感じることも「問題ない、大丈夫。」と信頼できるようになりました。

家族が心配や不安を感じることも理解できるし、自然なことだと感じるようになりました。
そして、それらを感じても大丈夫だと知りながら、応援やサポートできるようになりました。
そうしていると、実際に相手も心配や不安に引きづられなくなるのでした。

気がつけば母の不安や心配にもイライラしなくなっていました。
すると、母もよりリラックスして本音を話すようになり、お互いに気軽な関係になっていったのでした。

8.まとめ

自分が封印している感情は、他人がそれを感じているとイライラするものです。
心理的にも現実的にも距離をおいて、できるだけ自分から遠ざけておきたい感情だからです。

しかし、その感情を自分が許容できると気にならなくなります。
それを相手が感じてもかまわないし、自分が感じてもかまわない。
二重の意味で気持ちが落ち着きます。

そのためにも、どんな感情も認めて感じられるようになりたいものです。
私は30才の頃に、あるワークショップで「感じる練習」をトレーニングしたことが大きな転機になりました。
感情カウンセリングでは、より感情に特化して効率的に感情のクリアリングがトレーニングできます。
興味ある方はお問い合わせください。

この「心配や不安が気にならず応援できるようになった」ことには後日談があります。
ほどなく気がついたのは、幼かった自分はこんな風にサポートしてほしかったんだな、ということでした。
これに気づいたとき、何か大きなわだかまりが癒やされた感覚がありました。
期せずして起きたことですが、感情のクリアリングの可能性を感じられました。

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