お父さんからもらったものが捨てられない!手放して気がついた本当の自分 

無意識にとってある父からのプレゼント

年末の大掃除で自分の持ち物を整理していた時のことです。大学の入学祝いに父からもらったブレスレットを見つけました。

前年の大掃除の時も結局手放せなかったものでした。毎年、最後まで迷って持ち越す、ということを繰り返していました。

よくよく見回すと、他にもホワイトデーにもらったハンカチ、小さい頃にもらった絵の具など、父からもらったものがいくつもありました。

いらないものは躊躇なく手放す方ですが、父からもらったものは無意識に特別扱いでした。

父の気持ちが捨てられない

思い返すと、大学の入学祝いをもらった当時、私の家はあまりお金に余裕がありませんでした。そんな中、父が買ってくれた入学祝いでした。手放そうとすると、お店まで一緒に歩いた時の父の後姿やお店で商品を見たときの思い出が蘇り、悲しみがこみ上げてくるのでした。父を裏切るような、悲しませるような感覚になり、どうしても手放すことができませんでした。

でも以前から、ものを手放せないということは、ものに関連した感情を手放せないことなので手放した方がいいのではないかという気はしていました。せっかくの大掃除の機会に少し見つめてみようと思ったのです。

悲しみの正体は父からの自立?

父からもらったものを手放す時の悲しみと向き合うと決めて、しばらく経った頃のことです。そういえば同じ悲しみを感じたことがあることを思い出しました。

それは心理的なワークをしていた時でした。いくつかの質問に答えていくワークです。

質問の中に「稼ぐと両親が悲しむことは何ですか?」というがありました。この質問を見たとき、心の奥から悲しみが込み上げてきました。それは父からもらった入学祝いを手放そうとした時の悲しみと同じものでした。

また違う状況でも、同じ悲しみを感じる瞬間がありました。

「これからこんなことがやってみたい。」と本当にやりがいを感じることが心に浮かぶとあの悲しみがこみ上げてくることが何度もありました。

自分らしく稼いだり、やりたいことをやろうとすると、父の思いを裏切るような、父を悲しませるような気持ちになって悲しくなるのでした。

頭では「それはなんだかおかしい」と考えていました。やりたいことをして幸せな姿を見せることは親孝行だと思っていたからです。

どうやら自立しようとすると悲しみを感じるらしい、ということはわかったものの、なんでこんなに悲しいのかは納得できないまま悲しみを見つめることになりました。

「ずっとお父さんの娘でいたい」

「とにかく悲しい!」という感じでした。具体的な理由は分かりませんでしたが、ひとまずその悲しみに意識を向けていました。
意識を向けて悲しみを感じていると、父が私のためにしてくれたいろんなことが思い出されました。
一緒に宿題をしてくれたり、ディズニーランドに連れて行ってくれたり、ピアノを教えてくれたり、手先が器用な父が私のために作ってくれたものもありました。
そんなことを思い出していると「あの時もらった優しさはもう無くなってしまうんだなぁ」と思いました。ずっと持っていたい大切なものを無理やり引き離されるような悲しみを感じました。その悲しみに耳を傾けているとこんな言葉が心の奥から聴こえてきました。
「ずっとお父さんの娘でいたい。」

私は父に可愛がってもらえるいい娘でいるために、父の理想や思いを裏切らないようにしてきたのだと気がつきました。

プレゼントを捨てると父の思いを裏切ることになり、がっかりさせることで今まで父から感じていた優しさを失ってしまうと感じました。

ここまで来て「だから自立したくなかったんだ」と腑に落ちました。

それに気がついたことで「父の理想の娘を演じるより、本当の自分を生きていきたい」という発想が湧きました。

そして「年内にお父さんからもらったものを手放して、理想の娘を演じることをやめよう」という目標を持ちました。

とはいえ、今まで感じたことのないくらい大きな悲しみだったので苦戦しました。人生最大級の悲しみはいくら感じても消えることがありませんでした。あまりの悲しみの大きさに半分諦めつつ、ことあるごとに悲しみを感じました。
しばらく続けると「絶対に捨てられない…!」という気持ちだったのがだんだん「なんか捨てづらいなぁ」というくらいまで緩んできました。そして、ついに悲しみを感じながらも父からのプレゼントをリサイクルショップに持って行きました。
ちょっと後ろめたさもありました。「せっかく買ってくれたのに申し訳ないな」とか「お父さんが知ったらなんて言うだろう」とか、そんなことも頭をよぎりました。
でも、手放そうと考えるだけで悲しみにのまれて「絶対無理!!」と感じていた頃と比べたら随分と軽くなったものだと思いました。

気がつかずに演じていた「理想の娘」

悲しみが軽くなってきて、あることに気がつきました。それは職場でも無意識に理想の娘を演じていたということです。

職場でお菓子を作っていると「この働き方でいいんだろうか」「どう思われるんだろう」「もっとこうしたほうがいいのかな」と社長の目線を気にすることがよくありました。

また「人を雇うって大変なことだから」などと妙に経営者目線でいることも何度もありました。その時は「社長が物理的に近くにいることが多いのでそうなっているのかな」と思っていました。

でも、父との関係を見直したことで、経営者である父が従業員に求めていた働き方を自分に求めていることに気がつきました。

「お父さんに認めてもらうために、お父さんの理想の従業員になろうとしてる!」と気がついたときはかなり衝撃を受けました。父との関係が職場での働き方に影響しているなんて夢にも思わなかったからです。

等身大の自分でリラックスして働く

父の理想になろうとしている自分に気がついてからは職場での働き方がだいぶ変わりました。

以前は父の影響で作業効率や費用対効果を異様に気にしていました。

後から考えて、「こんなんじゃダメだ」と自分を責めたり「もっとこうすれば良かったのに…」と後悔することは本当によくありました。

そうやって無理して頑張りながら自分を否定して、一方で「これだけやっていることを認めて欲しい」という気持ちがどこかにありました。

でも、それが理想の娘になろうとしていることなんだと気がついたら「なんか変なことしてるな」という気分になってきました。

「こうしたほうがよかったかな」と後から気がつくことがあっても、「次に活かせばいっか」と思うくらいになりました。

以前は「どうやって経営者(お父さん)が納得する働き方をするか」と考えていると「もっとやらなきゃ、こんなんでお給料をもらってはいけない」という気持ちだったのが淡々とリラックスして仕事に取り組めるようになりました。

「今の状況でのベストはなにか」「自分がどんな風に仕事に取り組みたいか」を考えるようになりました。

理想を演じるのではなく等身大の自分で主体的に仕事に向かうようになりました。

以前は父の理想の従業員になるために自分を厳しくチェックしていました。それをしなくなって、まず自分のミスに寛容になりました。そうすると不思議と今まで気になっていた同僚のミスが気にならなくなりました。

「まぁ、そんなこともあるよね」くらいですんでしまって「今まで気にしていたことって、実はそんなに気にする必要がなかったのではないか」という感覚でした。そもそも、そんなに大げさなミスでもなく、ちょっと違うやり方をしたら多少効率がよくなるかな、程度のものだったのです。

そんな心持ちでいると、自然と同僚との会話も弾み、笑うことも増えました。今まではなかったのですが、話の流れで一緒に食事に行くことも何度かありました。

効率の良さにフォーカスして仕事を進めていましたが、それよりもみんなが笑っていられる職場環境であることが重要に思えてきました。私自身もそちらの方が断然心地よく仕事ができました。父の理想から自由になって「自分にも他人にも優しくなったなぁ」と思いました。

まとめ

悲しみが教えてくれるのは「失いたくない何か」なのかもしれません。私が父からもらったものを手放そうとすると感じる悲しみが教えてくれた「失いたくない何か」父の理想の娘でいることだったようです。

本当は必要ないにも関わらず、手放すと大きなものを失うと勘違いしていました。感情が等身大の自分でいることを邪魔してしまっていたのです。向き合うまでこの囚われに全く気がつきませんでした。

感情をクリアリングすることは無意識の勘違いに引っ張られることなく、自分らしい人生を選ぶことを容易にしてくれるのだと思いました。

無意識の囚われから自由になって、本当の自分に出会えた経験でした。

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