才能とインナーチャイルド 

こんにちは、山田結子です。

急に秋になってしまったかのような気候変動ですね。皆さんはどうお過ごしてしょうか。私は、最近始まった『ブタクサ』花粉にやられて、くしゃみを連発する日々です。いつか花粉に打ち勝ちたいと思いながら、薬なし、マスクのみで頑張っています。

さて、ここ1、2ヶ月ほど、才能について考えていました。

きっかけはある人が、私には才能があって羨ましいと言ったからです。しかし、私はそうは思っていませんでした。努力してきたことが形になってきただけで、才能の問題ではないように思っていたのです。クライアントにも才能や能力を生かすことについて、関心があると言っていたこともあって、才能と向き合ってみようと思うようになりました。

まず、才能を辞書で調べてみると、生まれ持ったものか、後天的なものかという点で区別していました。個人的には、生まれつきも後天的なものも、どちらも才能であると感じましたが、特徴がそれぞれあると思いました。

生まれ持ったものは人間関係や身近な人との関係の中から発見しやすく、後天的なものは自分の過去の経歴を見直せば気付くものがあるような気がしました。

とりあえず、私なりにそう決めてみて、向き合ってみようと思うと、才能や能力の存在を認めていないような感覚が出てきました。

表面層に感情は見えません。完全に否定するような力がかかっています。困難さを感じつつも、しばらくその感覚を見つめていると、少しずつ感覚が動いていきました。想いの塊が見えてきたので、少しステイして、そこに意識を向けていました。

すると、才能についてはどこか否定的な感覚を持っていたことを感じられてきました。子供の頃から、自分では才能があると思っているけど、誰もそれを指摘せず、これが私の才能だよねと言うと、周りの人はそんな能力は大したことないんじゃないかと発言する。それで、私の才能は大したものじゃないと、自分で決めつけ続けていたのかもしれません。その行為が、どれくらいの弊害を持っていたのでしょうか。

まず、才能を認めないということは、私の才能も他人の才能も否定します。ということは、周囲の人たちはほとんど才能がないと思っている人たちばかりになり、豊かさが失われ、人には何の価値もないんじゃないかという集合無意識にとらわれ、無力感の強い人たちと意識を共有することになります。

一方、才能を認めると、周囲の人たちは何かしら才能を生かせる種をもって、私の前に現れるようになります。そして、お互いの才能を生かせば、何かできるんじゃないかという期待を感じつつ、人生を歩めるようになります。

最初から才能を否定するより、基本ベースとして多くの人はなんらかの才能を使って生きていると考える方が自然であるような気がしました。

そして、ふと気付いたことがありました。

私たちは、才能をいったい何に使っているのか?ということです。才能にはポジティブな側面とネガティブな側面があるという話を聞いたことがありました。例えば、おしゃべりが好きな人のポジティブな面は『場が盛り上がる』ですが、ネガティブな面は『騒々しい』かもしれません。場や相手を選ばなければ、才能はネガティブなものとして解釈される場合があります。

その話を思い出して、私は才能を何に使っているんだろうか?と思いました。どのように使用していて、誰にどんなことをしていて、物事にどんな作用を起こしているのでしょうかと思いました。私という存在が、いつも場になんらかの影響を与えているのです。それが、自分の才能に対して無意識になって、周囲に影響を与えている状態ではないかと思いました。

ここまで考えて、才能を放置してはいけないような感覚になりました。漠然とでも私の才能を理解し、社会に生かせるようにしなくては、才能を使って、他人の本来の生き方を妨害してしまったり、私自身の生き方を否定してしまうことがありうると思いました。自分の生き方に影響を与えるなら自己責任ですが、他人の生き方に悪影響を与える可能性をそのままにすることはできません。改めて、才能と向き合おうと思いました。

まず、生まれ持った才能を何に使っていたのか?という切り口で考えてみました。

子供の頃の私をイメージすると、いつも孤立していた雰囲気がとらえられました。人を信用せず、あらゆる体験を恐れて、避けるようにしていました。問題を解決できないことを恐れていて、問題が起こらないように気を配っていました。人に責められたり、非難されることも怖かったし、誰かに世話をされることはかなりの恐怖でした。そして、子供の頃の私が、物事を察したり、予期、予感する能力が一般の人よりも高かったのではないかと感じられました。もちろん、感じた予感の中には思い込みや単なる不安からきた妄想もあるとは思います。しかし、無意識に物事を避ける機能が一般的な人よりも強いからこそ、人生がいつも困難であるように思えてしまい、避けるべき問題がたくさんあるととらえてしまっていたのだと思います。

また、後天的な才能をみると、人を理解することにかなり時間を使ってきました。他人を知ることで、人から攻撃されにくくなったり、どのように対人関係を乗り越えるのか?に注目してきたようです。純粋に人への興味があったわけではなく、人への怖さから人を知ろうとしていました。今では、一人の人間の力には限界があると感じるまで理解が深まってきました。

この2点をあわせて考えると、そろそろ、他人を理解する目的を保身のためではなく、自分そのものを知るため、自分や他人の価値を高めるために切り替えてもいいのではないかと思いました。これまで、少しずつ切り替わってきていたのかもしれませんが、ここではっきりと自分の気持ちと向き合えました。

向き合ってみると、この不安定な世界の中で、親を信頼できず、心を閉ざし、それでも生きていかなければならないと思っていた私の気持ちが、はじめて解放されました。誰かに理解されたいと思いながら、誰にも理解されないことに安心をおぼえ、ずっと孤独を抱えていたのだと思います。親の気持ちを知りながら、何も言えず。他人の気持ちを知りながら、でも私には何もできない。その気持ちがあふれてきて、少し緊張が緩みました。昔、私は相手の言って欲しいことをいうロボットになっていました。その生き方ができなくなって、自分を変えたいと思うようになったことを思い出しました。あの時は、本当につらかったです。自分という存在が、どこにも存在しないように感じていました。そのことを十分に感じてみると、胸のあたりの緊張感がとれているように感じました。想いの塊も見直してみると、少しずつ崩れてきているように思いました。

そこで、はじめのきっかけを思い起こしてみました。私に才能があると言った人についてです。その人に才能はないのでしょうか。改めて考えてみると、その人は特に人から認められるような才能がないと思っているような気がしました。

考えてみれば、人が認めようが、認めまいが、有効に機能していても、してなくても、その人の才能というものは存在していて、それを頼りにみんな生きている。生きることが辛かったり、いつもぎりぎりな感覚だと、自分の才能の欠如ではないかと発想しがちです。でも、生きることが辛いのは、環境があってないとか、才能を無意識に有効でないことに使っていたり、何かを頼らないようにしている自分の問題なのかもしれません。それに気づいて、自分にとってよい選択をできることが、重要なのでしょう。

多くの人が、才能を有効に使って、人を助けあい、協力したら、どんな社会になっていくのでしょうか。暇な人なんて世の中からいなくなるかもしれません。いつもひっきりなしに、あなたの力が必要だと言われ、あなたの才能がなかったら、こうはならなかったと言われるのでしょう。世の中の人たちがみんなそういう生き方になったら、自分を否定して生きる人はいなくなり、自分の居場所がない人もいなくなります。

そこまで思うと、私を含め、みんなに才能があるいうことを認めてよいような気持ちになりました。今はまだ、才能を使って生き延びることに必死になっている人がたくさんいて、社会に才能を生かす発想が湧かないだけなんだと。

何度か深呼吸をして、そのことを受け入れていくと、気持ちが暖かくなりました。自分の才能を受け入れることは、他人の才能を受け入れることにもつながり、互いを高め合うことにしかならないことに実感がもてました。この素晴らしい社会モデルに、たくさんの人が参加してくれたらいいなと思いました。

私たちは才能の一部を社会に還元して生きています。それがなんであっても、他者のために生かすことで、お金という対価をもらえるのです。才能がないと思う人は、自分が生きるために才能を消費していたり、身近な人にだけ与えていて、社会に還元していないのかもしれません。でも、才能そのものはあって、いつもそれを使って生きています。私は元々お菓子が好きで、その最新情報を得るのに、察する力を使ってリサーチしていたかもしれません。子供の頃は他人のためにはあまり使っていなかったと思います。それが実は才能ではないかと仮定しただけで、インナーチャイルドに対する理解が大きく変化する予感も感じます。

いかがでしたでしょうか。今回はどっぷり才能について考えてみました。私はこれがインナーチャイルドを再評価できる素晴らしい切り口のように感じました。また、考える機会を持ちたいなと思いました。

自己探求カウンセラー 山田結子

 

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