失敗を怖れる気持ちを整理する 

はじまり

私は昔から、タスクが複数重なると、強いストレスを感じやすい傾向がありました。最近も仕事が忙しい時に、そういう場面に陥ることが増えてきました。

ここを変えてみたいと思い、この緊張感を確認してみると、失敗を怖れる気持ちから生じているように思えてきました。

もしも、変えることができたら、体の緊張が緩み、忙しい時もリラックスして仕事に臨めるようになるかもしれません。

今回は、失敗を恐れる気持ちを整理してみたいと思います。

まずは、テーマになりそうな「失敗を怖れる気持ち」を探してみます。

しばらく探しているうちに、どんよりとした気分になりました。やりたくない気持ちが湧いてきます。失敗について考えるだけで、この状態になるようです。

関連する過去の出来事を回想してみると、高校受験の時の「失敗してはいけない気持ち」がわかりやすいと思うので、これをテーマにします。当時のことを振り返り、失敗してはいけない気持ちと向き合ってみました。

 

受験に向き合えなかった中学時代

私は高校受験のとき、当初は公立と私立を2校受ける予定でしたが、私立1校に変更しました。その時、受験に失敗するのではないかという強い怖れが生じていました。もし、併願の私立高校に行くことになったら、私が苦手な子達と同じ学校で三年間過ごさなければならなくなるとわかっていました。

外部の試験と学校の人間関係に自信を持てなかった私は、希望を私立高校1校に変更しました。失敗を怖れるあまり、高校受験の負荷を1回に減らしたかったのです。私が行った高校は、同じ学校からは3名しか受験しませんでした。当時の私にとって、問題からうまく逃げられたとも言えますが、不明確なリスクから逃げてしまった感覚もありました。

当時の失敗を怖れる気持ちを感じてみます。

すると、失敗に対してどんよりした、黒くて澱んだエネルギーが出てきました。失敗と自己否定が結びついているようでした。想像以上に重たい感覚です。

失敗に対するネガティブなイメージを確認してみると、「失敗=ダメ」「失敗=価値がない」「失敗=死」「失敗=負け」「失敗=成功できない」など、たくさん出てきます。

「失敗=死」は言い過ぎのような気もしますが、当時の私にはそれくらいの強迫観念があったのでしょう。

失敗に対してこんなに強い思いがあったとは自覚できていませんでした。かなりのストレスだったと思います。

 

失敗の意味から罰との関わりを見出す

失敗を整理するために、まずは言葉の意味を調べてみました。

「失敗とは方法や目的を誤って良い結果が得られないことであり、物事をやり損なうこと」とあります。

振り返ってみると、私が漠然ととらえていた意味は、成功は偉い、失敗はダメという考え方でした。

子どもの頃、何かを失敗した時に親から否定されたり、怒られたりしたのかもしれません。とりあえず、そう仮定して、感情をみてみます。

しばらく観察すると、かすかに失敗すると怖い目に遭うという感じが捉えられました。「失敗=罰」というイメージを持っていたようです。具体的に罰を与えられた事例は思い出せませんが、罰を与えられるような感覚は、子どもの頃からありました。それで、他人の顔色を伺う傾向があったのを覚えています。

罰に対する怖さは影響度が高そうなので、個別に感じてみます。意識を向けると、苦しみと恐怖が入り混じった思いが出てきます。かなり辛い領域でした。苦しみしか見えないくらいの感覚です。罰に対して苦しみや怖れが強すぎて、叫びたくなるような強い衝動があります。

苦しみや怖れを感じていくと、人が人に対して罰を与えることの怖さを感じてきました。罰を与えられる時、人ではなく家畜のように扱われるような感覚を感じました。

そこまで感じると、怒りが生じてきました。

その怒りを感じると、今度は残虐な気持ちがわいてきました。罰に対して反発心や復讐心が入り混じってドロドロしてくるのがわかりました。罰に対して強い反応があります。

引き続き、怒りを感じ続けます。

感じていくと、また怖れが生じてきました。死を覚悟するかのような強い怖れです。罰によって殺されるようなイメージを伴っています。体感覚では、胸の下の方から、エネルギーが出ていく感覚があります。深呼吸しながら、その感覚を意識してみます。

すると、様々なイメージが浮かんできました。

「体罰を受ける」「罵倒される」「死を覚悟する」「暴力」などが結びついていました。失敗に対する不安が強すぎるあまり、さまざまな妄想と結びついてしまったのでしょうか。

「失敗」と「罰」を整理してみます。言葉の意味から解釈する二つは関係ないものです。失敗とは、ある目的が達せられないことで、罰は悪い行いに対する懲らしめです。目的が達せられないことは悪い行いをしたことにはなりません。失敗に対して罰が存在するのは、特別な条件下だけのように思います。

もし、日常的に罰のようなものが存在するなら、それは罰ではなく、私的な制裁と思われます。罰はルールに基づいていて、私的な制裁とは個人の尺度で行われるものと解釈できます。

ここまで整理が進むと、罰という言葉に対する反応がおさまってきました。ルールを正しく理解していない時だけ、罰を受けてしまう可能性があるという感覚になりました。

 

失敗から見えた間違いへの怖れ

失敗と罰の結びつきが弱くなってきたのを確認し、再び失敗を意識してみました。

失敗は、方法や目的を誤って良い結果が得られないことだと意識すると、失敗を認めるには間違いを認めなくてはならないという感覚が生じてきました。

上手くいくと思っていたことが上手くいかないのは、何かを間違えていたり、勘違いしている可能性は高いでしょう。

もしかすると、間違いを認めることを怖いと思っているのかもしれません。間違いに対する考えを確認すると、自分の間違いを認めたら、自分の価値が下がってしまう気がしていることがわかりました。

私のこれまでの経験から、間違いを認めて正しい選択に変更できた分だけ価値が高まる気がします。間違いを認める瞬間の怖さや怒りがあることはわかりますが、長い目でみると間違いを減らせた方が価値が高いように思います。

しかし、それを認めることに抵抗感を感じます。

そこに意識を向けてみると、子どもの頃から算数の問題を解く時、計算ミスをした部分を確認できなかったことを思い出しました。間違えた部分を見ることができないのです。英語や国語などは見直せましたが、計算式があるものはできませんでした。

当時の状況を思い起こすと、計算を間違えることに強い怖さを感じていたことがわかってきました。他の間違いとは異なる雰囲気の「怖さ」です。そんなに大きな問題があるのでしょうか。

しばらく過去を振り返っていると、小学生の授業は手を挙げて計算結果を答える形式だったと思い出しました。はっきり覚えていませんが、手を挙げて答えた数字が間違っていて、それから人前で発言するのをやめるようになったのではないかと思えてきました。軽く意識を向けると、気まずい思いを感じます。

間違いに対する感情を感じてみると、怖れに「罰」「失敗」「恥」「ダメな人間」などが結びついているのを感じます。その後、間違いに過剰反応するようになり、間違いそのものが怖いという状態に変化したのでしょう。

間違いに対する怖さを感じてみます。

すると、暴力的で暴れ回るような感覚を見つけました。間違いをなかったことにしようとする力でしょうか。激しい憎しみのようにも思えます。

感情の処理を進めていくと、間違いによって自分が滅びるのではないかという気持ちがあることがわかってきました。客観的にみると、学校の計算問題を間違えても、滅びることはありません。改めて意識してみて、計算問題にこんなストレスを抱えていたことに驚かされます。計算を嫌いになるわけです。

しっかりと受け止めて感じていくと、間違いを軽く受け止める感覚が出てきました。時折、絶望感、苦しみ、悲しみなどが波のように押し寄せてきます。それでも、感じる姿勢を維持していると、少しずつおさまってきました。中心に強い怖れがあり、自分が努力しないと何かを失うのではないかという焦りが生じていたようでした。

 

まとめ

十分に感じたところで、失敗に対する感覚をもう一度振り返ってみます。これまで、失敗に「罰」と「間違い」が関係していたため、失敗から強いストレスを生じていましたが、どれくらい変化したか確認してみます。

テーマに挙げていた、高校の選択を変えてしまった時の感覚を思い起こします。すると、挑戦できなかったことへの悲しみがぼんやりと出てきて、失敗に対する怖れはほとんどなくなっていました。どうせ私立にするなら、別の学校を選択したかったという気持ちも出てきました。ただ遠いだけではなく、私にあった学校を選択することは重要だったと今は思います。

当時の私は失敗が怖くて、やりたいことを最初から諦めてしまう傾向がありました。体力や精神力にも自信がなかったので、できるだけストレス負荷を避ける選択をしていました。自分の人生を最初から諦めているかのようでした。

ただ、当時の私の状況を配慮すると、十分考えて選択していたのだと思えてきました。これだけ混乱した思考の中で、私なりに最善の選択をした結果だと思うと、自分を許せる気持ちも湧いてきました。

私の人生には失敗はたくさんあるかもしれませんが、私なりに考えて選んだものです。これまでの選択を受け入れる気持ちが湧いてきました。失敗を失敗と思い続けることで、私自身を否定することになっていたのかもしれません。

次第に、過去の失敗から解放されるような感覚が生じてきました。今なら、失敗から学ぶ姿勢を持てるような気がします。

いかがでしたでしょうか。

失敗について整理していく過程を体感していただけましたでしょうか。失敗という考えを整理することで、失敗から解放され、自分の過去から逃げるような感覚がなくなり、自己同一感が高まりました。体がリラックスする度合いが高まり、人と話すときにも素直な感覚を表現しやすくなりました。向き合うメリットの大きい項目だったと思います。

皆さまの日々の取り組みの参考にしていただけましたら幸いです。

自己探求&感情カウンセリング 山田結子

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