インナーチャイルドを見つめて才能を生かす 

 こんにちは、自己探求をしている感情カウンセラー山田結子です。

 

先日、ある神社に行きました。その神社の社務所の屋根には、たくさんの鳩がいました。不思議に思って辺りを見回すと、有料の鳩の餌がありました。これかと思って餌袋を一つ取り出すと、その瞬間、鳩がわんさと寄ってきました。まだ袋を開けてもいないのに、腕に飛び乗り、肩に乗りそうになり、慌てて逃げました。すると、鳩がどんどん追いかけてきました。動物は好きなんですが、流石に追いかけ回されると怖かったです。そんな体験ではありますが、神社のよい思い出になりました。怖さもまた、思い出のいい味付けになりますね。

 

さて、本題です。『インナーチャイルドを見つめて才能を生かす』が今回のテーマです。

私自身の才能について向き合ってみたところ、『察すること』が私の才能ではないかという結論を得ました。

→参考(https://www.kc-a.jp/myself/innerchild-gift/

しかし、世の中をみると、察することをうまく機能させて、自分のやりたいことを実現し、自分にとって最適な選択をきちんと選べている人がいるのは事実です。そういう人たちと私が同じ才能の種を持っているとは思えないくらいです。そこで、もう少し本気になって、どこが違うのか向きあってみます。そして、才能を生かすためにどうすればいいのかを考えようと思います。

 

私はよく他者の欲求や感情をよく察していました。他者の欲求や感情の影響を受けすぎていて、私自身の欲求や感情を見失ってしまう傾向がありました。自分を見つめるためには、他者との距離を大きくとらないと、すぐに見失ってしまうくらいでした。そして、いつも慢性的に感じていたのは孤独感です。私は他者のことを理解しても、自分のことを理解することができず、それが孤独感に繋がっていました。誰も自分のことを理解してくれませんが、他者は私に理解するように求めてきているように感じていました。コミュニケーションはいつも一方的で、私のことは聞いてもらえないことも多かったように思います。

そのことを思い起こすと、当時の孤独感が出てきました。

感情としては恐怖心が強い感じがしました。理解されないことへの恐れや、私の発言で相手が怒ることへの恐れが中心のようでした。しばらく感じていると、怒りも出てきました。自分を理解しない相手への不満や憎しみ、怒りなどがあるようでした。恐怖心を感じたのは最初だけで、後から出てきた怒りの方が強い印象でした。あまりにも強い怒りだったので、しばらく処理を続けていくと、いくつか父親とのやり取りを思い出しました。

 

父親は私を馬鹿にするような発言をし、見下すような態度をよくとっていました。そのことに私はとても腹を立てていました。どんなに努力しても、たいしたことないと言われているような気がしていました。父親は私を正当に評価していないと私は思っていたようです。ただ、父親は私だけでなく、ほとんどの多くの他者を評価しない人でした。人間のやっていることだから、誰にでもできると安易に考え、その人独自の知識や経験に価値があるとは考えない人でした。

 

ここまで振り返って、気づきました。

私は察する能力を『評価』を中心に使用していたのではないか?ということでした。

評価されることは善で、そうでないと悪という極端な発想を持っていて、物事を善悪だけの指標で考える習慣がありました。今は二元論で片付けられるほど物事は単純ではないと思っていますが、心の取り組みを始める十年ほど前は善悪に対して過敏な性質を持っていました。

 

悪だという感覚が刺激されると、ものすごい怒りがわいていました。会話の途中でも、『悪』という反応が出ると、意識が途切れてしまい、怒りのあまり発言ができなくなるような状態でした。小学生の時はそんな状態だったので、コミュニケーションは大の苦手でした。察する能力を保身のために使っていたことも理解できます。自分が攻撃されないように、他者の顔色を見て、自分を主張しないようになりました。自分を知られるほど、攻撃の対象になるような気もしていました。孤独の方がまだ安全だと感じていました。

 

私が自分を肯定できる状態だったら、察する能力をフルに使用し、良いことがたくさんあったはずです。

求める情報が見つかりやすかったり、やりたいことの近道を見つけたり、物事のいいところを見つけたり、本音をとらえやすかったりと、少し考えるだけで、自分の未来を変えるのに十分な能力のような気もします。私の状態が『安全ではない』と思っていたために、本来は未来に発揮すべき能力を保身に使い、現状維持か何も変化しないようにしてました。そのためか、いつも慢性疲労で体調もすぐれませんでした。私はアレルギー体質なので、子供の頃から体に悪いものを食べていたことも直接のダメージとしてあるかもしれません。弱体化した状態になると、更に『安全ではない』感覚が高まり、保身的になります。悪循環です。

親はそんな私をみて、『体が弱い』と思い、あなたは健康ではないというメッセージを繰り返します。私はますます保身的になり、能力を発揮せず、自分には何もできないと思い込むようになります。これが、能力を発揮しない方向へ力がかかったパターンの全容だろうと思います。

ここまでパターンを理解すると、察する能力をそこまで『評価』に向けていた理由は、単純に評価されたい気持ちがそれくらい強かったのだと思いました。何をしても評価されないので、怒りも感じていたのかもしれません。

 

私は父親に評価されたかったのでしょう。

私にとって、父親は遠い存在でした。家にいると酒を飲んでいることがほとんどなので、酔っ払いと話しているのと変わらず、彼が本音で何を考えていて、何を希望しているのか、よくわかりませんでした。私に優しくしてほしいと思っていたような気はしますが、同じ口でお金を稼がない人間はダメだと言うし、女性を見下すような発言もしていました。本当は何を求めていたのか、今となってはわかりません。父親は亡くなりました。

 

こうして自己探求を続けていると、次第に親の不完全さやいたらなさを認めるような気持ちになりました。親に弱い部分があることや、できないことがあるということが理解できてきました。これまで、父親との間に感じていた壁がうっすらと弱まっていくようでした。改めて見直すと、私の両親はとても未熟な人たちでした。彼らは未熟なりに一生懸命生きていたことがよく理解できました。そこまで考えてみて、ふと自分のことはどうなのだろうと思いました。私の不完全さやいたらなさ、弱さを受け入れていないように思いました。

とりあえず、そのことも受け入れてみると、できないことを認める感覚が生じました。物事には時間的に難しいことや無理をしないとできない場合があります。時間が無限にあれば、なんでもできるかもしれませんが、実際はほとんど期限があります。また、お金という制約もあります。やることにお金のかかることなら、そのお金を出すだけの価値があるのかどうかを判断する必要があります。できないことがあるのは、自然なことです。無理してやることが、かえって問題を生じさせる場合もあるかもしれません。できないことはできないままでも良い場合があります。できないことに意識を向けていると無意味な感覚が生まれ、できることややりたいことに意識が向けやすくなってきました。

 

そこで、察する能力を何に使ってみたいかをイメージしてみました。

いくつか案が思い浮かびました。新しいことをするのに使ってみる、流れを読むのに使ってみる、コミュニケーションを円滑にするために使ってみるなどです。すると、自分の能力を発揮する事が面白いことのように感じられてきました。以前は、できないことへの不安がありましたが、今はそこまで強く感じません。能力を発揮して物事がうまくいかなかった場合、自分の不完全さを感じることになり、自分の能力そのものを否定的に見ることにつながり、そこへの不安があったのでしょう。

 

今回、才能を生かすことについて深く考えた結果、今までやったことがないことに能力を発揮してみたいと思えるようになりました。それによって、自分が無力ではないと実感し、自分のできることを正しく受け入れられるかもしれません。まだ、具体的な方向づけはしていませんが、今後の方針に入れてみたいと思います。また、お読みいただいたあなたにとっても、才能を生かす道の手がかりになれば嬉しいです。

関連記事(https://www.kc-a.jp/myself/innerchild-gift/

自己探求&感情カウンセラー 山田結子

 

 

上に戻る