劣等感と向き合ってみる 

私はできが良くないという気持ち

こんにちは。山田結子です。

最近、パソコンで目が疲れていたので、パソコン用のメガネをメガネ専門店で作りました。すると、メガネがあることで安心してパソコンに向き合えるようになりました。ちょっとしたことですが、自分の身体のニーズに応えることは大切だなぁなんて思いました。

さて、今回のテーマは「劣等感と向き合ってみる」です。

最近、仕事をしている時に、自分は出来がよくないという漠然とした劣等感を感じました。自分は不完全で、未熟な存在で、他者から必要とされないのではないかという不安を伴っているようでもありました。

私は、自己肯定を高めてから劣等感を扱うのが良いと思っていたので、劣等感自体を詳しく見てきたことがありません。しかし、今回はチャレンジしてみようという気分になったので、進めてみようと思います。

まず、この劣等感を直球で感じてみようと思いました。関連する感情が特定できないので、漠然と感じてみて、感情をあぶり出してみます。すると、自分は劣った人間なんじゃないかという漠然とした思いが湧いてきました。それを感じ続けていると、怖れが出てきました。同時に、イメージが浮かんできました。

学生時代に周囲の子たちが学校で習ったことを理解して、口にしているのを聞き、ものすごく焦ったことを思い出しました。周りの子達の方が、私よりもずっと色々なことを理解して、高度なことを習っているように感じていました。知らないことやわからないことを耳にすると、今でも強い怖れを感じるときがありました。学校では勉強ができないこと、会社では仕事ができないこと、自営業ではお金が稼げないことがテーマになっていた気がします。

 

有能な人間と思われないのだろうか

有能な人間と思われることに執着しているのでしょうか。

私の理解では、有能さに固執すればするほど、自分の出来が悪く感じられてくるように思えます。ただ、主観的にはそこまで有能さにこだわりはありません。不一致な感覚を覚えつつ、引き続き劣等感を見つめてみました。

すると、ダメな人間と評価されることへの強い怖れが出てきました。ダメな人間と評価されたが最後、殺されるのではないかというくらい強い怖れです。絶望感と死への恐怖に怯えるような感覚です。何もかもが終わってしまったという思いでした。

その怖れを感じてみると、孤独感や絶望感、無力感などが入り混じっている感じがわかってきました。この思いがどこからきたのか特定はできませんが、少なくとも、これを感じないために、ダメな人間にならないような努力をしていたことはわかりました。有能な人間と思われたいのではなく、ダメな人間と思われないために行動しているのです。それは、ゴールのない努力を重ねる要因になっていたかもしれません。目的があるようで、実際は目的のない努力です。自分の到達するべき方向が示されていません。

 

しっかりと感じてみると、評価されることへの怖れや緊張感、ダメな人間と思われることへの怖れが出てきました。そして、ありとあらゆる比較のイメージが湧いてきました。外見の比較、知性の比較、仕事の完成度の比較、男女差の比較など。あらゆる面で比較されているような感覚が生じてきました。芸能人と比較することもあったようです。芸能人を目指していないのに比較する意味があるのか、そんなに無差別に比較しなくても良いのではないかとも思います。

劣等感が生み出された過去

当時の記憶をたどると、私は運動は不得意でした。計算したり、検討したり、選ぶなどの作業を短い時間ですることも難しかったです。他人から影響を受けやすい傾向があったので、落ち着いて一人で考える時間が必要だったり、物事がなぜそうなっているのかに気を取られて、物事をそういうものだと納得できない傾向もありました。

私は自分のそういう傾向を否定していたのかもしれません。元気で、物事をハキハキ受け答えできて、怖れを知らず、勇気をもって人と接して生きられる人が「子供としてあるべき姿」であり、私はそうではないという思いがあったかもしれません。ある意味、子供らしくない面があって、周囲から浮いた存在に見えたのかもしれません。

ここまで内面を掘り下げてみると、私は小学生~中学生の頃の自分を認めることができていないように思えてきました。具体的な理由もなく、漠然と否定しているようにも感じます。まずは否定していることを受け入れてみることにします。

 

受け入れてみると、人に本音で話をしたり、心から楽しんだり、好きなものを表現することができない様子が見えてきました。どこか拘束されていて、自由がないような印象を受けます。そのイメージの私をそのままの自分で良いとしてみました。そうなっている理由がわからない時は、そのまま受け入れることにしています。すると、辛いことがあっても人に言えなかったという感覚が出てきました。そこで、私が学校に行くことで、辛い思いをしていたと受け入れてみました。すると、怖れの感情が出てきました。感じてみると、忘れていた子供の頃のイメージが出てきました。

学校に行きたくなかった小学生時代

小学生の時、学校に行きたくないと親に言ったところ、父親が激怒してカバンを階段の上から投げ捨てました。そして、行きたくないなら行くなと怒鳴り捨てました。それから、家の中で学校のことは何も言えなくなりました。私にとって、この体験はかなり大きな障害となっているのかもしれないと思いました。辛いことがあったのも聞いてもらえず、逆ギレされて、私が悪いわけでもないのに怒られたのです。この時から、私は家族に対しても心を閉ざすようになったのかもしれません。

 

引き続き、慎重に怖れを感じていきます。途中で、奇妙なエネルギーがいくつか見えましたが、一旦は横に置いて進めます。当時の私には、同級生たちがすごく怖い存在に思えていました。彼らは非常に攻撃的で、同級生に対して激しく悪口を言っていました。そして、同じ意見を持っていない人は排除されるような同調圧力もありました。

私は家の中でも、学校でも攻撃されることを怖れていました。また、両親の親戚や付き合いのあった家も攻撃的な人が多く、彼らが家に来ると、怒りや不満をぶつけてくるような態度をとることがよくありました。私や私の家族は、他人から不平不満をぶつけられやすい傾向があったのかもしれません。

そして、この時のことに意識を向けようとすると、眠気が生じてくるような感覚に気付きました。もしかすると、ものすごく重大な課題が関与しているかもしれないと感じました。意識を集中して、自分の感じていることに意識を向けてみました。

ブラインドのかかった領域を開くようなイメージをもち、しばらく観察していました。しばらくして、大人になりたくないという思いが出てきました。学校に行くことは、大人になるための象徴的な行動だったのでしょうか。それなら、学校に行くことが嫌なのではなく、大人になるのが嫌だから学校に行きたくないというのが本音で、扱うべきは「大人になりたくない」という気持ちの方です。

大人になりたくないと思いながら、学校に行っていた分だけ、自分の成長にブレーキをかけていたのかもしれません。抵抗も大きくなり、学校生活に問題が出やすくなったのかもしれないと思いました。

 

その感覚で、小学生から中学生の時代を軽く見直してみると、女の子たちがスカートを短くしたり、化粧をして学校にきたり、大人っぽい感じを出してくるのを見て、すごく嫌だと感じていました。私はこういう人間にはなりたくないと思っていました。しかし、一方で、大人っぽい子に対して強い劣等感を抱いていたようにも思います。自分も大人になりたいと思いつつ、大人になりたくないと同時に感じていたのです。大人になることへの怖れを感じてみると、当初感じていた未熟さや不完全だという感覚が軽減しているように感じられてきました。

まとめてみると、私の感覚的な「大人度」という基準があって、それに対して劣等感を感じていたということがわかりました。有能さやダメさは本当の問題なのではなく、大人度が高そうに見えている人に対して劣等感があり、大人度が低い人にダメさを感じていたようでした。仕事の評価や性質の違いではなく、かなり漠然としたイメージに翻弄されていたようです。

それがわかると、今まで自分を正当に評価していなかったのは、私自身なのだと理解できてきました。これを機会に、自己評価を正しく持つことを意識し、補正していくことで、劣等感が生じにくくするメンタリティを育てたいと思いました。

 

劣等感の取り組みを終えて

さて、今回の劣等感の取り組みはいかがでしたでしょうか。正直、この取り組みは難しい取り組みでした。あらゆる問題が同時にいくつもあぶり出されています。問題が多種多様で、ここには書ききれないこともありました。しかし、自己評価に関わる問題を抱えているなら、一度はチャレンジしたいところだと思います。

ぜひ、これを読んだあなたにも、たくさんの気づきがありますように。

自己探求&感情カウンセラー 山田結子

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