優越感と力への欲求 

はじまり

こんにちは、山田結子です。

最近、優越感が話題にあがりました。しかし、私は優越感という感覚が弱く、劣等感はあるけど優越感は感じにくい状態でした。その話題に対して、思考停止してしまいました。

全く何も感じていないのであれば、そこには、盲点になっている何かがあるかもしれません。そこで、今回は優越感を切り口に進めてみたいと思います。

まずは、優越感という言葉の意味から整理していこうと思います。優越感は、自分が他より優れていると自覚する快感という意味でした。

私は、他人より優れた人間になりたいという願望は持っていましたが、実際は、自分がそれほど優れていると思いません。願望がないわけでもありませんが、諦めている面もあり、それが劣等感になっているようでした。優越感と劣等感は表裏のような関係にも思えます。

 

優越感に対する怖れを感じる

しばらく内観していると、私は優越感を持つことを怖れているという可能性を感じました。優越感を持つと、悪いことがあると考えているのかもしれません。まずは、そこから向き合ってみます。

意識を向けていると、子どもの頃、両親は私が優越感を持つことを許さなかったと思い出してきました。両親の劣等感が強かったのでしょう。私が優越感を持つような態度をとると、彼らは機嫌が悪くなったり、人を責めるような態度をとったりしたことを思い出してきました。

 

当時の記憶を見つめていると、家族に褒められたり、認められるようなことはほとんどなかったと自覚できてきました。見下したり、相手を馬鹿にするような態度がとても多かったと思います。私は、優越感を相手に知られると、攻撃されると思っていたかもしれません。

意識を向けていると、怒りが湧いてきます。中学生の頃には、見下されることに慣れてしまっていました。この頃には感情が溜まりすぎて、感じにくくなっていたかもしれません。

怒りは胸の中央にあり、ズシンと重い感じがします。そこに強い復讐心があることも自覚できました。「力が欲しい」という意図も感じます。こうした他者との関わりから、力が欲しいという欲求が生まれたようです。

怒りを感じていくと、憎しみが表面化してきました。受け入れてみると、他者ではなく自分を憎んでいることがわかりました。理想通りの自分ではないことに、腹を立て、今の自分を憎んでいるのです。このような場合、理想を修正するのが良さそうに思えます。

理想通りの私はどんな人間なのでしょうか。当時の感覚を呼び起こしてみます。すると、「完璧な私」という発想が出てきました。なんでも言われたことは実現できる、なんでも知っている、なんでも理解できる、完全無欠の天才ロボットのような人間と思っていたようです。

そういう人間でなければ、必要とされないと思い込んでいたのでしょうか。他人の要求になんでも応えることが目標になってしまい、自分の個性や希望が見えなくなったのかもしれません。

 

「完璧な私」をやめる

この過去の枠組みを変えるために、まずは「完璧な私」を受け入れてみます。

すると、完璧という言葉に反して、穴だらけのロボットのようなイメージを持ちます。何も感じてはいけないし、相手の要求に応える以外の機能はなくそうとしていました。強い虚勢を張っている感覚も捉えられてきました。そういえば、子どもの頃から、本音を言うと他者から攻撃されると思っていました。

「完璧な私」としばらく向き合っていると、手放すことが簡単ではないように感じられてきました。ここにも感情が絡んでいるのかもしれません。

この理想を手放すことへの怖れを感じながら、向き合ってみます。すると、「もっと完璧な私」というものが出てきました。理想がもっと良い理想に置き換わったようです。引き続き、「もっと完璧な私」とも向き合ってみます。

 

 

すると、内側から疲れ果てた当時の私が出てきました。理想の自分であるために、押さえ込んでいた気持ちかもしれません。向き合っていくと、じっとしていて無口な私が出てきました。話しかけても、ずっと黙っているような雰囲気です。その私を受け入れてみました。

ここまで処理を進めて、ようやく状況が理解できてきました。色々な人に対して完璧な振る舞いをしようとし過ぎて、当時の私は本来の自分を見失ってしまったようでした。不安定だった過去の自分が少しずつ崩壊していきます。そして、それが崩れていくと、白くて細い存在が見えてきました。これが本当の私だったのでしょう。随分、頼りない存在だったのだと理解できました。

しばらく向き合っていると、白くて細い存在が静かに厚みを増してきました。そして、「完璧な私」や「もっと完璧な私」が急速に崩れていきます。虚勢も必要ない感覚になってきました。

 

力に対する欲求を見直す

ここまで取り組んでみて、力が欲しいという欲求はどうなったのでしょうか。「完璧な私」は崩れたものの、力に対する欲求がまだ残っているかもしれません。改めて向き合ってみます。

なぜ力が必要なのでしょうか。内観してみると、できないことをするとき、力が必要だとでてきました。できないこととは何を指しているのでしょうか。

意識を向け続けていると、自分は勉強ができないという思いが湧いてきました。勉強ができないので、勉強ができるようになるために、力が必要だと思っていたようです。

私は学校が嫌いでした。その理由は同級生とのコミュニケーションがうまくできないからだと思っていたのですが、それ以外にも勉強ができないのに、しなくてはならないことが苦痛だったようです。どんなにたくさん勉強しても、それ以上を求められているのが苦しいと思っていました。

私はなぜ勉強ができないと思っていたのでしょうか。

 

 

聞いたことをなかなか覚えられなかったり、授業中に意識がそれてしまうことが多く、勉強自体が非効率だったのかもしれません。何回覚えてもすぐに忘れてしまって、記憶にとどめておくのが難しいと感じていました。

そして、周りの人たちは私よりもっと勉強ができていると思っていました。余裕をもって日々を過ごしている人が多かったので、私ほど勉強しなくても十分な成績が取れるんだと思い込んでいたようです。

今考えると、勉強に対してかなり追い詰められていました。何か理由でもあったのでしょうか。

当時の私の感覚を思い起こしてみると、家は裕福な家ではなく、お金をかけずに成功してほしいという親の要望がありました。しかし、私には成功したとしても、どことなく不安というか、幸福ではないイメージがありました。通常は、何かを達成すると、誰かと成功を喜びあえる気がするのですが、成功が無意味であるような虚無感があります。

ここまで向き合ってみて、成功に対する怖れを感じてきました。多くの人は、成功に対してポジティブなイメージを持っているかもしれません。その時に、優越感も得られるのでしょう。しかし、私は何らかの理由で成功にネガティブなイメージが結びついていて、成功して優越感を感じるのが怖いという状態にあったようです。問題があったのは、成功することに対してでした。

 

更に、成功に対する怖れを感じてみます。

成功に対する怖れは、私にとって死を感じさせるくらい強い怖れのようです。怖れを感じていくと、戦争などで人々が倒れていくようなイメージが湧いてきます。しばらくイメージの処理を続けていくと、優越感と連動して虚無感や孤独感、絶望感などが感じられてきました。処理を続けて、ネガティブなイメージが軽減してくると、他者と自分を比較する感覚が弱まってきました。目の前が開けてくるような印象を感じます。

 

まとめ

かなり感覚が変化したので、優越感がどのような状態になったのかを確認してみます。弱々しい感じではありますが、優越感が嬉しいと表現できるような感覚が生じてきました。ようやく、優越感を感じても良い状態になりました。

また、力を求める欲求についても確認してみます。すると、以前より私の内側に力があるような感覚が持てていました。自分の能力が力であって、自分の外にある力は自分の力ではないという感覚です。自他の領域が整理されたのでしょうか。かなりスッキリしています。成功についても、抵抗が少なく、ワクワクするような感覚も生じています。

ここまでの取り組みで、小学生から中学生の時にできた過去の思いが揺さぶられて、過去の理想の人間像が緩み、潜在的な劣等感の処理が進んだようです。今まで、劣等感があることが大前提になっていたかもしれません。ここに取り組むことで、自分に対する疑いやごまかしが少なくなった気がします。

 

いかがでしたでしょうか。

今回のテーマは、私がよく話題にしている劣等感と逆の感覚がどうなっているのかを話しあった内容から展開していきました。普段は意識の向かない感覚をテーマにあげることで、重要な気づきがありますね。当たり前の側面ではなく、物事の裏側から向き合うことの面白さを感じました。

皆さんの日々の取り組みの参考になれば、幸いです。

自己探求&感情カウンセリング 山田結子

上に戻る